“【お便り募集】文筆家ひとみしょう お悩み解決” に送っていただいたお便りの中から、お悩みをひとつピックアップしてひとみしょうさんがお答えします。
<目次>
「のやまさん37歳」のお悩み
はじめまして。
私は子どものいない主婦です。こうした恋愛コラムを気にして読むようになったのは、今は元上司になった独身男性との関係に悩むようになったからです。悩んだ末、男性目線からひとみさんのアドバイスをいただきたくメッセージを送らせていただきます。
私は弟が一人いる長女として育ち、両親にもそれほど心配をかけることなく、20代で、私を大事にしてくれる良い人と結婚し10年が経ちます。今は両親と離れた土地で暮らしており、そんな折に出会ったパート先の上司と関係を持ってしまいました。不倫などとは無縁と思っていましたが、なぜ自分がそんなことをしたのか自分なりに考えてみました。これまでずっと正しく無難な選択をしてきた、本当は好きな人と好きなことをしたい!という私の願望があるような気がします。
彼とは最初、業務の連絡LINEから個人的なやりとりになっていき、家が近所ということも分かってすぐに親しくなり、主人の留守の日に何度か私の家で飲んで遊んだりしました。彼がスキンシップをしようとするのに驚きましたが、酔うとこんな感じなのかな?と思い、彼と過ごす時間が楽しかったので、徐々にガードは緩んでいき、最初は握手、次はマッサージ、その次は添い寝というように彼の求めることに応じました。
家に行くのは気がひけると彼が言うようになり、外で遊んだり食事したりするようになったある夜に、酔った彼の勢いもあり、関係を持ちました。その日彼は、私の帰りが遅いのを心配して私のスマホの位置情報を頼りに私を捜しに来た主人と対面したのですが、私の悩みを彼に聞いてもらっていたと口裏を合わせてその場を収めました。
関係を持ってからも、私の彼への接し方は変わりなく、好意を伝え続けています。私は、誰を困らせてもいいと覚悟していましたし、もし今でも彼が、私を奪ってでも一緒になりたいと言ってくれたらそうするつもりです。でも、彼にはそれほどの気持ちがないということも分かります。
彼の私への言動には波があります。例えば彼は、好きな人がいると言いその人との関係について私に相談してきたかと思えば、私にキスしてきたりしました。一番大きな波があったのは、私が家庭の事情でパートを辞めた直後くらいです。突然LINEの文面が敬語になったのを、どうして?と聞くと、もう部下じゃないからと言われましたが、しばらく経って元どおりになりました。
私の何気ないLINEのことばに対して、サヨナラするの?と聞いてきたかと思えば、酷い言い方をするけどセックスフレンドでいいの?と言ってきたりもしました。ただ遊んだり食事したりするのは無理、セックスありきだと言ったかと思えば、しばらく経って私がお願いするとドライブに連れて行ってくれたりしました。
今はコロナ禍ということで会うことは控えていますが、いろいろな波を経ての彼の考えは、彼の言葉を借りれば「俺が欲張ることはないよ」ということのようです。私がLINEをすると返してくれるという状況ですが、以前は頻繁に来ていた下ネタっぽい内容はもう送って来なくなりました。
好きな人と好きなことをしたいという私の願望は満たされないままです。彼の言動もどう理解すれば良いのか分かりません。日々優しくしてくれる主人の存在や、両親、弟のことを考えると、私の気持ちや彼との関係について誰にも言えません。ひとみさんのアドバイスをいただけましたら幸いです。
〜ひとみしょうのお悩み解決コラム〜
<これまでずっと正しく無難な選択をしてきた>人のなかには、そのことをコンプレックスに思っている(不満に思っている)人がいる、というのを、ぼくは最近『ホテルローヤル』という小説を読んで、はじめて知りました。桜木紫乃さんの直木賞受賞作です。
昨年11月、タイトルをそのままに映画化されたらしいのですが、映画はまだ見ていません。
その小説の主人公は、自分の人生があまりに平坦で、これといった挫折もなく、諸手を挙げて喜悦することもないことに、コンプレックスを抱いています。
そのコンプレックスが原動力となり、挫折経験のある男性と恋に落ちます。がしかし、結局、「なんかちがうな」と思う、という、ただそれだけのお話ですが、オチの描き方が、さすがに直木賞受賞作というか、秀逸なので、よかったら読んでみてください。
どこまでエグさを受け入れることができるか
さて、ご相談の件ですが、話のポイントは「のやまさんが、どこまでエグさを受け入れることができるか」という点にあるのではないかと感じました。
エグさというのは、お化けなどのように、自分の外部にあるおどろおどろしいものとか、そういうことではなくて、端的に、のやまさんが抱いている罪悪感のことです。
<日々優しくしてくれる主人の存在や、両親、弟>さんに対して、のやまさんは罪悪感を抱いています。その罪悪感に、のやまさんが、どこまで耐えることができるのか?という問題です。
罪悪感について
のやまさんの罪悪感は、<これまでずっと正しく無難な選択をしてきた>という、のやまさんご自身の生き様から生まれています。
正しく無難に、というのは、別の言い方をすれば、優等生的に、となると思いますが、のやまさんは、これまで優等生的に生きてきた。<本当は好きな人と好きなことをしたい!>という気持ちを、自分と他人に隠しつつ。
その気持ちが、「偶然」今の彼に出会って表に出てきた、ということですよね。
「本当は」これまでの自分のまま(=優等生的に)生きた方がいい、そのほうが波風が立たず、いい。と思う自分と、<本当は好きな人と好きなことをしたい!>と思い、(ときどきは)周囲の人に内緒で好きな人と好きなことをする自分。
その両者の葛藤が、罪悪感を生み出しています。自分を責める気持ち(のやまさんが、のやまさんご自身を責める気持ち)を生み出しています。
自分を責める気持ちが萌芽すれば最後、人は、自分に絶望するしかありません。ほかに選択肢はありません。
のやまさんは今、自分に絶望しているのです。だから、<好きな人と好きなことをしたいという私の願望は満たされないまま>なのだし、<彼の言動もどう理解すれば良いのか分か>らないのです。
先に書いた「エグさ」という言葉を使って表現するなら、のやまさんは、自分に絶望しているという「エグさ」を、今、持て余しているのです。
耳を澄ますことの大切さ
多くの人は、自分が、じつはエグさを持て余しているのだ(=絶望しているのだ)、ということに無自覚なまま歳を重ねます。のやまさんのように、もやっとした不満があっても、それを、のやまさんのように言語化できないんですね。ましてや、「わたしが抱いている気持ちとは、端的に、絶望のことだ」と思えないんですね。
ところで、絶望について、死ぬまで哲学した人に、キルケゴールがいます。彼は、自分に絶望したときは、自分のなかにいる神様の声を聴いてごらん、と言います。自分のエグさを発見したとき、内なる神の声を聴いてごらん、と言います。
キルケゴールの言う神とは、直接的にはイエスのことです。彼は敬虔なクリスチャンでしたから。
しかし、間接的には、「善さ」を想起させる何者かのことです。
不倫してたら「なんか」家族に悪いと思う、という場合、のやまさんは、なんらか「善」なことを思っているはずですが、その「善」を、のやまさんに想起させる心のはたらき、これが「内なる神」です。
さて、どうするべきか?
長く優等生的に暮らしてきた人が、ある日突然、<好きな人と好きなことをしたい>と渇望するようになれば、大変です。
急に優等生を辞めるわけですから、周囲の人がおおいに驚きます。
急に辞めないにしても、「優等生を辞めたい」という気持ちと、「いや、辞めたらまわりの人に迷惑がかかるかも」という、ふたつの気持ちの間で葛藤が生まれ、その必然の結果として、生活が荒れてきます。
さて、どうするべきか?
キルケゴールが言うように、心の内なる声に耳を澄ませ、そこからなんらか答えを得るべきなのか?
それとも、好きな人と好きなことをする人生を地で行くのか……。
ぼくは、桜木紫乃さんの『ホテルローヤル』の主人公みたいな結末をたどる女性が圧倒的に多いと思っています。
「好き」を生きるということ
それはぼくにはわかりません。おそらく、来年ののやまさんにだってわからないはずです。
ただ、好きな人と好きなことをする人生というのは、エグさの極み、すなわち、ふつうに暮らすのが極めて困難ないばらの道だ(だから、今ののやまさんのように、そういう生き様に憧れるだけで十分だ)ということは、ぼくは実感として感じます。
文章を書いて(好きなことをして)、好きな人と暮らす(嫌な仕事は引き受けない)ぼくの今の生活から、ぼくはそう思います。定期収入はない。キルケゴールの「絶望」をもとに希望論を上梓しても、芸能人のように「パイプ」がないからあまり売れない、ゆえに「ふつう」の生活を維持するのが困難――「好き」と生活するって、たとえばこんな感じなんです。
(ひとみしょう/作家・キルケゴール協会会員)
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