セックスとは何をする行為なのかと言っても、物理的にアレをアソコに出し入れする行為です、なんてことを言いたいわけではありません。駆け出しのウェブライターなら嬉々としてそう書くのかもしれませんが、哲学エッセイを書いて食っている45歳の男は(わたしは)、すでにそんなことを書くことに露ほども興味がありません。
さて、セックスとは何をする行為なのか?
セックスとは何をする行為なのか?
淋しさを一時的に消し去る行為です。別の言い方をするなら、自分の淋しさと対話する行為です。
どういうことか?
わたしたちは「淋しいとセックスしたくなる」といった特性を持っています。
淋しいという感情は世間では「格下」に見られているので、みなさん自分の淋しさを隠していますが、じつはその隠しているものがセックスの原動力(ガソリン)なのです。
なんとなく淋しいときってありますよね?たとえば、彼氏がいるのになんか淋しいという気持ち。
その「なんか淋しい」気持ちを、わたしたちはなぜか、つい、ふと、セックスによって解消しようとします。
むろん、人によっては、たとえば、「クラブで踊るだけでなんとなく淋しい気持ちは消えてくれる」と言う人もいます。しかし、そういう人であっても、始発前の渋谷の路地を歩きながら、なんとなく淋しくなって、言い寄ってきた男とそのへんのラブホに入るということもあるわけでして。
カップルでも同じです。
彼氏がいてもなんとなく淋しいから、彼氏と物理的につながっていたい、あるいは体温を交換っこしたい。だから、毎週のように会ってセックスしたい。遠距離恋愛なんてありえない……。
彼氏も同じです。彼女がいるにもかかわらず、なんか淋しい。だから毎日オナニーしてしまう。週末に彼女と会えたら、速攻でラブホに入って、彼女が持つあたたかくてやわらかいもので硬直しきった淋しさを包み込んでもらいたい。
つまり、私たちは、男女の性差にかかわらず、なんか淋しいという気持ちを消し去るためにセックスしているということです。
「自分の淋しさと対話する行為」とはどういうこと?
では、本文の冒頭に書いた「セックスとは自分の淋しさと対話する行為」とはどういうことか?
裸でベッドでイチャイチャしているとき、目の前の相手の体温や声、しぐさ、表情などをしっかりと捉える人ももちろんいるでしょう。
しかし、そのような行為の奥には、自分の淋しさと対話しているという行為が、じつは潜んでいるということです。
たとえば、「彼とこうやってベッドに入るまで、わたしはなんか淋しかった。今その淋しさを彼氏に正直に言うと<淋しくて貧しい子>みたいに思われるかな。そういうの嫌だな。でも淋しかったのだから、それをいま全部彼にぶちまけちゃえ!」と思って、実際にそうした結果、彼があなたのことをしかと抱きしめてくれた。そのとき彼女は「なんか淋しいという気持ちを彼氏に正直にぶつけてよかった」と思います。つまり、セックスという行為を通して、自分の淋しさと対話しているのです。
とくに男子は、その傾向が顕著です。なぜなら、男子は「頭の中で<あの子>を思い浮かべつつセックスする」ことがあるからです。
目の前にいる彼女ではなく、頭の中にいる、たとえば「ヤラせてくれなかったあのかわいい女子」を思い浮かべつつセックスするからです。
その「ヤラせてくれなかったあのかわいい女子」というのは、すなわち、彼の心の中にいる「淋しい自分」のことです。「あの女子こと」という記憶とは、自分の心に巣食う未完結の物語、つまり、淋しさのことだからです。
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